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なおきのひとり言

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沢村栄治と父(森 義信)

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その年に最も活躍した投手だけに与えられる賞は、大リーグではサイ・ヤング賞、日本のプロ野球では沢村賞である。

沢村栄治は大正6年2月1日に三重県で生まれる。私の父は大正7年7月3日に横浜で生まれ、すぐに名古屋に移る。

接点は、共に小学校で投手であったことである。

そのころは、高校野球、大学野球も盛んであったが、少年野球も盛んであった。

昭和5年の全国選抜少年野球大会に、沢村は三重県宇治山田明倫小学校の投手として出場。二回戦で和歌山高等小学校と対戦して、何とノーヒット・ノーラン

に相手を抑えたが、味方の失策とボーンヘッドで0対1で敗戦。

私の父は愛知県高岳小学校の投手として出場。沢村とは対戦しなかったが、見事優勝を果たして全国一になった。

沢村はその年に京都商業に行き、甲子園で活躍、日米野球にも出場して、当時はまったく大リーグには歯が立たなかったが、

静岡草薙球場での一線ではルーゲーリックのホームランで0対1で負けをしたが、この試合は今も語り草になっている。

その後、読売巨人軍入団。昭和12年には30試合投げて、24完投、24勝4敗、防御率は0.81を記録している。すなわち勝った試合は全部完投しているのである。

しかし残念ながら沢村は1944年12月2日に若干27歳で戦死してしまう。

今年は沢村栄治生誕100年でこのことを思い出した。

私の父も全国優勝したのであるから、当然当時の中京商業からお声がかかったと言われている。

しかしながら昭和5年というとしは、ホーリネス教団のリバイバルがあったと言われている年であった。

申し遅れたが、父の父である祖父は、当時中田重治氏の弟子で、ホーリネスの牧師をしていたのである。

両親にも、家族にも、教会にも中京商業で野球を続けることを留められた父は、カトリックの南山中学に入学させられる。

残念ながら、南山中学には当時野球部はなく。野球をあきらめなければならない人生を強いられた。

そんな父は今から17年前に81歳で、共に暮らしていた我が家で召されていった。77歳でやっと私から洗礼を受けて・・・

毎朝私が顔を洗う洗面所の後ろに、写真賞状が飾ってある。

だから私はリバイバルは嫌いである。その人が神さまから与えられているものをこの地上で十分に生かすことができるのが

本当のリバイバルではないかと思う。教会や教団、教派がそれを殺してしまうことは、決してリバイバルではないのでは・・・

by naoki4940 | 2017-08-28 16:49 | なおさんのひとりごと | Comments(0)